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☆彡64年目の夏、そこには・・・☆ミ

5年前に亡くなった父ちゃんの親父さんは
戦前カメラに凝ってました。ある日遺品を
整理してたら古い写真とネガがたくさん
出てきました。

8月9日03

ブローニと言う巻上げ式の古いフィルムで
その中に戦前の人々の生活や風景が撮影
されていました。その中に興味深いカット
が何枚か出てきたのです。



《原爆投下前の浦上周辺》

8月9日01

~昭和十四年頃の浦上駅周辺~

現在の長崎原爆病院、浦上駅、長崎新聞社
などある川口町あたりです。三菱重工長崎
造船が所有する土地でラグビー場があった
そうです。

運動会の風景なので秋でしょうか、当時の
三菱造船は工員を養成する技術学校があり
その学生達のようです。

左奥のコンクリートの建物が長崎大学付属
病院です、右正面には浦上駅の屋根らしき
建物があります。当時は木造の建物ばかり
ですね。

8月9日02

~昭和十四年頃の爆心地方向~

この写真が撮られた約6年後の昭和20年
8月9日お昼近く、左の学生服を着た少年
の頭上約500mで2発目の原子爆弾は炸裂
したのです。


《あの子らは・・・惨劇の谷》

~被爆後、投下翌日の惨状~

山端庸介の足取り
  ↑入り口です。

軍の命令(原爆の残忍さを宣伝する目的)で
従軍カメラマンであった山端 庸介氏が
8月10日に被爆地を撮影したサイトが
↑にあります。そこでギャラリーをご覧に
なればその後どのようになったか解ると
思います。(一部に衝撃的な写真があります)

※写真に著作権があり転載できませんので
リンクよりご覧下さい<(_ _)>




それから亡き父が被爆体験を残しておりましたので
ほぼ原文のまま、ご紹介いたします。ふだん手記等
書かない筆不精の親父が何ヶ月もかかって書き上げ
たと思います。 よかったら読んであげて下さい。

*****************************

「放射能で死んだ弟」 私が見た長崎1945.8.9 M・E

私は当時26歳、長崎の三菱造船所に勤めていました。その日は
浜口町の大学病院で胃潰瘍の検査に行く予定でした。しかし、
どういう訳か朝から急にお腹が痛くなったので、自宅のある
蛍茶屋で寝ていました。突然「ドドドーン」と言う大音響と共に
爆風がきて、家もろともにゆすぶられました。爆心地から4キロ
メートルの所です。自分の家のそばに、至近弾が落ちたと思い
ました。しばらくして、様子を見に外へ出ました。近所の家々は
倒れてはいなかった けれど、私の家と同じように、瓦はめくれて、
家の柱に障子とふすまがまとわりつくように潰れているのが
外から見えました。

これを見て、光雲寺の壁に貼り出してあった広島の新型爆弾だと
思いました。それで、自宅にいた母と妹に急いで逃げるように
言いました。母は妹を連れて山の方へ行ったようでした。自分の
家族がどうなったか、心配でした。とりあえず、すぐ下の弟の
消息を聞きに、諏訪神社近くの武徳殿に行きました。そこには
連隊区司令部の分所があって、弟の事を尋ねたら、ガラスで手を
切って陸軍病院に行ったと聞き、ひと安心しました。その日は
市内の大火事などで混乱と避難者の混雑で、とても先に進める
状態ではありませんでした。火事は当時空襲の対策で強制的に
疎開地になっていた桜町の所まで迫っていました。それで
やむなく家に帰ってきました。そうこうする内に、家族は一人、
二人と帰ってきました。でも一番下の弟だけは帰って来ません
んでした。

次の日、家族の中で一人帰ってこなかった弟を探しに、身支度を
整えて出かけました。自宅を出て桜馬場を通り、経済学部の横を
通り、西山から三つ山越えで、本原に下りて行きました。弟は
旧長崎工業学校(現南山高校)に通っていたので、もし生きて
いたらその辺りに居ると思い、焼け野原を歩いて行きました。
その一帯が爆心地だったと後から知りました。途中小学一年生
ぐらいの男の子が石に座っていました。ところが、その子は座っ
たまま死んでいるのです。差し出したその手のひらに、煎り大豆
が乗っていました。その後ろに、彼の弟らしい小さい遺体が横
たわっていました。言葉が出ませんでした。さらに、しばらく
行くと、胸に挺身隊の名札をつけた、モンペ姿の女の人がいま
した。目を閉じて、手を水平に突き出し「もう目がみえません。
助けてください。」と誰かに向かって叫んでいました。彼女は
差し出した腕から皮膚が着物のように垂れ下がり、見るも無残な
格好でした。そして近づいた私に「すいません、十人町の者です。
連れて行ってください。」と頼まれましたが、私は自分の弟を
探しに来た事を告げて、謝りました。

道端の死体をいくつも見ながら、ようやく旧工業高校に着きま
した。板の上に乗せられた裸の遺体が累々と横たわっていました。
そこに先生らしき人が居られて、弟の事を尋ねたら、すぐに教え
てくれました。グランドの角の石垣にちょこんと座って、生きて
いました。眼下の焼け野原をただ呆然と見つめていました。振り
返った弟は火傷も無く、服も破れていませんでした。靴は履いて
いませんでしたが、元気そうでした。こんな死体ばかりの所で
大した怪我もなく生き残れた事に喜び、すぐに連れ帰る事にしま
した。もと来た道をたどって、三つ山越えで、夫婦側の春徳寺下
まで来ました。そこに崖から浸み出た湧き水の出る所があって、
やっと水を飲ませてやりました。弟はその水を「うまかー、うま
かー」と言って、何杯も飲みました。その後、死ぬまで弟は
「あん水は美味かったなあ。」と家族に言い続けていました。

家に帰って一~二日経つと、唇の周りに水泡がたくさん出来て
いました。それがやがてかさぶたとなって、口が開かなくなり、
飲食がしにくくなりました。3日目の事です。しだいに腹痛と
下痢がひどくなってきて、便所へ何度も行く様になりました。
弟があまりに腹が痛いと言うので、伊良林小学校の救護所に連れ
て行きました。沢山のけが人や病人が医師の診察を待っていま
した。薬らしい薬もなく、やがて火傷に塗る白いチンク油みたい
な塗り薬もなくなってしまいました。痛み止めの注射も、後が
ないと言うので、ほんの僅かばかり気休めに程度に打ってもらい
それでも何もしてもらえないよりはましだと、弟に言い聞かせ
ながら、家に帰りました。しかし、家に帰る途中で注射の効きめ
が切れたらしく、弟はまた痛い痛いと言いながら帰宅したのです。

それからの弟はひっきりなしの用便に、這って行くようになり
ました。やがて這う事もできなくなり、寝たまま下痢を続け、
弱りだしているのが私達にも分りました。弟の腹は次第に黒褐色
になっていきました。生気が失せていきました。そうして7日目
の夕方、家族の見ている前で母に抱かれて、息をひきとりました。
「もっと行きたかった、だろうに・・・。」と思うと集まった家族
は涙が止まりませんでした。

救護所のあった伊良林小学校のグランドで遺体を焼く事になり
ました。周辺の壊れた家屋から板切れや角材を引きずって来て
トタン板を敷き、弟を乗せ、上から材木を井形に組んで、火を
つけました。骨になるまで焼く必要があったけれど、なかなか
焼けませんでした。松根油を作る為に集められていた松の根を、
持ってきてかぶせたけれど、腹と頭はなかなか焼けませんでした。
だから、棒でかき回して焼きました。一番辛かったのは丸太の
先を弟の頭蓋骨に突っ込んでかき回しながら焼かねばならない時
だったと思う。脳みそをかき出してしまったら、やっときれいに
焼けました。灰の中から遺骨を拾い上げ、持って行った梅干し
入れの壺に入れました。帰り道にお葬式をしようと言う事になり
、お寺に連絡しました。でもすぐにはお坊さんに来てもらえま
せんでした。やっと手が不自由な若い坊さんが来てくれました。
仏壇の前で、家族が集まり、ささやかなお葬式をあげました。
それから墓所に骨壷を持って行き、納骨しました。

弟の命は被爆から僅か7日間でした。皮肉にも終戦の玉音放送が
あった次の日の8月16日のことです。私の家族で亡くなった
のは一番下の弟だけだったけれど、親戚のおばさんは息子と娘を
広島で、同じ原爆で亡くしています。私も、もう一人の弟も
ガラスで怪我をした部位が、一年間も化膿し続け、なかなか治ら
なかったのは、放射能のせいと思います。人間の白血球が放射能
で異常をきたして、傷口の細菌を追い出せなくなっていたのです。
家族の他の者も被爆していました。五女の妹は茂里町の三菱兵器
工場で被爆し、ペチャンコの工場から火事の中を命からがら、
途中防火用水を被りながら、その日の内に逃げ帰って来ていまし
た。その妹も命は助かったけれど、一度は髪が抜けたのです。
可哀相でした。四女の妹も九電の仕事中に思案橋近くで被爆し、
本社のある五島町に逃げ帰ったと聞きます。

被爆からしばらくして、妹は占領軍のABCC(桜馬場)に何度
も呼び出され、検診を受けさせられた。それは治療目的でなく、
原爆の威力を調べる追跡調査だったと知って、腹が立ちました。
こんな汚れた爆弾は二度と使用しないで欲しい。毎年、お盆には
兄弟姉妹が自宅の仏壇の前に集まってくれます。昔話と共に原爆の
話もします。そして、私は死んだ弟の事を何度も話して来ました。
けれどそれを「他人様にわざわざ話す事でもない」と思って来ま
したので、そのまま50余年が経ちました。その私が80歳を越
えたのを機会に、原爆を体験した者として、被爆の実情を1つでも
多く残さねばならないのではないかと思い立ったのです。



-追記-

長々とご覧頂ありがとう御座いました。<(_ _)>

64年前の夏に広島・長崎で起きた事は必ず語り継いで
いかなければなりません・・・愚かな間違いを繰り返さぬ為にも

大量破壊兵器は使っても使われてもそれで最後なんです。
何も残りません。人間は愚かです、が素晴らしくもあります

国同士の身勝手な争いに、民が巻き込まれるのはもう嫌です。
わたくしの父達のような、悲しみや苦しみ憎しみはもう結構です。

普通で良いんです、ただ穏やかに暮らしたいだけなのですから





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コメント

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命拾い

よく言われました「オイが胃の痛と~ならんやったら、おまえ達
は生まれとらんとぞ!!」って。当時長大付属病院の予約はなか
なか取れなくて婆ちゃんと行け!行かん!って言い合いしてた
時に原爆が落ちたげな。11時予約だから死んどったですね!
もこママのおばちゃんも良かったですね~命拾いして、でもさ
その後の救護活動は壮絶やったと思いますよ。怪我人の服を
脱がせるだけでも被爆してるから。犬とか猫もいっぱい被爆
したばいねぇ~と思います。死んだおやじの弟は兄弟の中で
一番心の優しかったとて、それだけに辛かったって言いより
ました。・・・被爆者を思って泣いてくれて有難うございました!

ありがとう!

>sally様

重い話題でしたが、読んでくれて有難うございます!皆さん
に父の手記を読んで頂き少しでも被爆の事を思ってもらった
事がとても嬉しいです。
大量破壊兵器は使ったら最後終わりです、きっと原始社会に
戻る事でしょう。広島は平野なので長崎より被害が酷かった
と思いますよ、長崎は市内の半分が燃え残ったので復興が
早かったのです。

>nyantomo様

すべて国益と言う名の思惑と強欲ですね!石油、水、天然ガス
それが紛争の種となっています。利権がある限り争いは無くな
らないのでしょう。湾岸戦争やコソボ紛争で使った劣化ウラン
弾の被害が深刻です、いくら小さくても放射性物質を飛散する
なら核兵器です!そして犠牲になるのはいつも子供達です。
当時おやじは独身貴族でスーツやシャツはあつらえですしね
写真はネガからスキャンしてますから綺麗ですね。このネガ
木箱に70年間も封印されていたのです(笑)


>mari様

現在の平和祈念式典は行政主導の為に宗教団体の参加は
できません。その代わり前夜に爆心地で神道仏教キリスト教
その他宗教が集い慰霊祭を行います。祭壇を花やキャンドル
で飾りとても神秘的で感動しますよ。mariさんのお気持を仏壇
につぶあん団子を供えて親父に伝えます、きっと凄い喜ぶと
思いますよ(甘党だったからなぁ~)・・・本当にありがとう!

>祭花様

被爆国だからこそ核の傷みを知っているからこそ!核廃絶を
訴えていけるのだと思います。広島・長崎の体験が抑止力に
(使ったら最後)なっているのかもしれませんね。

>かおりん様

思ってくれる、泣いてくれる事が犠牲になった方々にとって
一番供養になると思うんです。今は不況で大変だけどあの
頃からするとまだまだ幸せなんですよね!

こんにちは~。

すばらしい手記です。
涙が出てきました。
私の おばも 被爆しました。
仕事場が松山でした・・・
その日の夢で 白い狐さんから お諏訪さんの方に逃げなさいと
お告げがあって 命拾いをしたそうです。
人に何かしてあげるのが 好きだったおばは
それから救護のお手伝いを一生懸命したそうです。
3年前に 88歳で亡くなりましたが 
私も 狐さんには 感謝の気持ちを 忘れないようにしています。
子供のころは もぉ~原爆の話はよかー!!と
両親に言っていましたが 今頃になって いろいろと考えます!
体験した人が だんだんいなくなる・・・
とても悲しいことです。
そして もぉ二度と こんな醜い争いがおこってはならないと思います。
世界平和を 祈るばかりです!!

とうちゃんのお父様、日本人が忘れてはならぬ手記を残してくれてありがとう。
先日、広島に住む友達が64回目の原爆の日の記事をブログで綴っていました。
ほんとうに、忘れてはならない、
後世まで伝え続けなければならない事実なんですよね。
二度と起こしてはいけない出来事だから・・・。

ほんの一部の人間の思惑と強欲のために
無関係な人々が不幸になるのは絶対に許せないです
利権争いや武器売買目的等のために
今も地球のどこかで紛争が起こり人が死んでいる事を思うと
平和のために自分ができることを
継続してやっていくしかないと思います


お父様、お洒落な方ですね。
写真もとても美しいですね。
貴重なお話を記事にしていただき、ありがとうございます。

二度とあってはならないことです。
広島・長崎で多くの方が被ばくされ、祈念式典などがこの
8月に行われ、あたかも過去のようですが、
実際は現在でも核実験によって被害を受けてる場所や人が
いらっしゃるのですから悲しいことですよね。
もっともっとお父様の手記を多くの人に読んで頂きたいと思います。
お父様も書きながら辛かったでしょうね。
思い出したくもないことを後世に生きる私達のために
勇気を使命を、振り絞られたのだから無にしないようにしなくては。
墓前に「ありがとうございました。二度と繰り返しませんから」
とお伝えください。

記事読ませて頂きました。
私の両親は戦後に生まれたので戦争の事は知りません。
おじいちゃんが生きてた頃に少しだけ聞いた事があるぐらいです。
なので私達の世代以降は戦争の恐ろしさ等は本や映画、テレビなどでしか知らず、
変な話ですが、テレビや映画、本などはフィクションでしかないような錯覚をしてしまう事もあります。
でも、こうして実際に戦争を経験されたり、被爆された方の手記や話を聞く事、
自分の目で見る事(資料館等)でやっと本当だと理解するのだと思います。
そのうえで本当の恐ろしさも知るのだと思います。
なので、こう言った手記を載せてくださった事でまた私達の知らない戦争の苦しみや恐ろしさを教えてもらえたのだと実感します。
語り継ぐ事で戦争の恐ろしさや、唯一の被爆国として平和のあり難さを、
そして同じ苦しみを味わう人が居なくなる事を訴え続けていきたいですね。
争いのない世界になればどんなに素敵な事だと改めて思います。

読んでいて涙が止まりませんでした。

こんな惨劇が自分の住む国であったというのに、
その痛みが薄れていくことに強い危機感を覚えます。

私は戦争を経験していませんが、
こういった悲劇に目をそらさずに、
機会があれば体験談や資料に触れていこうと
常日頃から考えています。
貴重な資料を読ませていただき、ありがとうございました。

見てくれてありがとう

バリ島行かれてたんですね、お帰りなさい!重くなって
ごめんなさい・・・でも読んで頂いて嬉しいです。80過ぎた
オヤジさんが慣れないワープロと何日も格闘しながら仕上げ
たの知ってからね。下書きでくれれば父ちゃんが正書した
のにね!楽しい事や美味しい情報、旅行の話題、そして
少し真剣に考える時間・・・そんなブログもいいかなぁ~って
言葉や絵は説得力ないけど、写真は事実を語ります。戦前は
男女交際とかけっこう自由でダンスホールとか楽しかったて
話してましたよ(笑)・・・けっこう遊んでてねオヤジさん

貴重な昔の長崎の写真、拝見させて頂きました。
それに、亡きお父様の文章、重いものがありますが、被爆2世の私には、他人事ではありません。
身につまされますね。
世界では、まだ平和に程遠いものがありますが、戦争など起きない平和な世界を望むだけです。

ありがとう!

そうなんですよね・・・その〝普通〟がなかなか難しいのね!
まぁ。1日が無事に終われば、それで良しって事です。
にゃんことまったり反省会・・・なんてのもいいなぁ~(=゜∇゜)

ありがとう!

猫の話題でなく、重くなってすみません<(_ _)>
広島・長崎の人は原爆は自分達が最後にして欲しいと
願っています。なのに国力を鼓舞する為に核実験される
ことが一番悲しいのです、いま若い子に少しづつでも平和の
大事さが伝わっている事が唯一の救いですね!

ありがと!

読んでくれて有難う、きつと父も喜んでます。この話し
もの心ついた頃から聞いてきた話だし、親の兄弟が全部
被爆者だし、夏のこの日は神妙な1日です。年に1回命の
事を真剣に考えてもいいかなぁ~って(^^) この後は
いつも通りのおとぼけニャンコの話題で・・・あははっ!

普通の暮らしの幸せ、本当にそう思います・・・

今日8月9日は広島に次いで長崎に原爆が投下された日。
日本中の人が忘れてはいけない日です。
とうちゃんのお父様の手記、読みました。
辛い事実。でもお父様がこうして手記として
残されたことは、おっしゃるとおり、
事実としてこれからも残さなくてはいけないものだと思います。

二度とあってはならない、
だからこそ伝えて行かなくてはいけないですよね。

8月になると思う事

今日はまじめに読ませていただきました。
じつは中2から高校卒業まで長崎の大村に住んでました。
なのでこの時期になると、原爆の話をよく聞いてましたし、
私の大好きだった担任の先生は被爆者で、それがもとで
亡くなりました。
友人にも被爆二世だと人も何人もいます。
二度とあってほしくないし、あってはならない事ですね。
猫三昧でいられる今の生活を大切にしたいと思いました。
コメントもまじめにしてみました。
かわいいなっちゃんによろしくです!(=^・^=)
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プロフィール

natupapa

Author:natupapa
natupapa01
☆しごと  じえい
☆すまい  じっか
☆とくぎ  ねこいじり 
☆大好き  お酒全般  
-----------------------------

★なまえ:♀なつ(natu)
★うまれ:H19 駅前ホテルの玄関
★せいべつ:尻尾無しにゃんこ
★おとし:5才のツンデレギャル
★とくぎ:八つ当たり
★だめだめ:チョロ食い
-----------------------------
ゴマ
★なまえ ♀ごま 
★キジ白MIXの長女 クールな子
★H22/05/24裏庭生まれの2才半
★特技:餌は残さない・うたた寝
-----------------------------
チー
★なまえ ♀ちー 
★シャムもどきの次女 お茶目な子
★H22/05/24裏庭生まれの2才半
★特技:萌え殺し時々逆ギレ
-----------------------------
profmitu02
★なまえ ♀みつ 
★キジ三毛 長い尻尾の別嬪さん
★H23/09位 路地生まれの1才半
★特技:極度の対人(猫も)恐怖症
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