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☆彡まったりな平和がにゃんこの願い!☆ミ


今日・・・・また65回目の命日がやって来ました。

ボクらの今の暮らしは7万4千名の犠牲者の上に

なりたっています。


にゃんこの願い01 

今年の広島平和記念式典では新しい変化がありました

国連事務総長の潘基文(バン・キムン)氏の参加です。

そして原爆を投下した当事者の米国ルース駐日大使が

戦後はじめて参加したことです。


この事は非核化への大きな試金石へとなるでしょう

世界が大きく変動していくきっかけとなる事でしょう



にゃんこの願い02

《昭和13年の夏・・・・東長崎、東望の浜にて》

核兵器は持っていても絶対に使えないのですから・・・・

この世から大量破壊兵器を完全に消滅させること・・・・

それは広島・長崎市民の永年の願いなのですから

(そして・・・・今年で7回忌の父の願いでもアリマス!)



にゃんこの願い03

猫たちは思っています・・・・・・穏やかな平和な世界で

人とまったりと暮らすことが一番シアワセなんだと・・・・



にゃんこの願い04

猫は爪をたてて引っ掻いても、キバでかみついても

たとえ猫キックでケリケリしても・・・・仲間を 核兵器で

殺したりはしませんよ。ぜったいに・・・・・・ヽ(=^‥^=)丿




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テーマ : 我が家のニャンコ(=^・ェ・^=))ノ
ジャンル : ペット

☆彡64年目の夏、そこには・・・☆ミ

5年前に亡くなった父ちゃんの親父さんは
戦前カメラに凝ってました。ある日遺品を
整理してたら古い写真とネガがたくさん
出てきました。

8月9日03

ブローニと言う巻上げ式の古いフィルムで
その中に戦前の人々の生活や風景が撮影
されていました。その中に興味深いカット
が何枚か出てきたのです。



《原爆投下前の浦上周辺》

8月9日01

~昭和十四年頃の浦上駅周辺~

現在の長崎原爆病院、浦上駅、長崎新聞社
などある川口町あたりです。三菱重工長崎
造船が所有する土地でラグビー場があった
そうです。

運動会の風景なので秋でしょうか、当時の
三菱造船は工員を養成する技術学校があり
その学生達のようです。

左奥のコンクリートの建物が長崎大学付属
病院です、右正面には浦上駅の屋根らしき
建物があります。当時は木造の建物ばかり
ですね。

8月9日02

~昭和十四年頃の爆心地方向~

この写真が撮られた約6年後の昭和20年
8月9日お昼近く、左の学生服を着た少年
の頭上約500mで2発目の原子爆弾は炸裂
したのです。


《あの子らは・・・惨劇の谷》

~被爆後、投下翌日の惨状~

山端庸介の足取り
  ↑入り口です。

軍の命令(原爆の残忍さを宣伝する目的)で
従軍カメラマンであった山端 庸介氏が
8月10日に被爆地を撮影したサイトが
↑にあります。そこでギャラリーをご覧に
なればその後どのようになったか解ると
思います。(一部に衝撃的な写真があります)

※写真に著作権があり転載できませんので
リンクよりご覧下さい<(_ _)>




それから亡き父が被爆体験を残しておりましたので
ほぼ原文のまま、ご紹介いたします。ふだん手記等
書かない筆不精の親父が何ヶ月もかかって書き上げ
たと思います。 よかったら読んであげて下さい。

*****************************

「放射能で死んだ弟」 私が見た長崎1945.8.9 M・E

私は当時26歳、長崎の三菱造船所に勤めていました。その日は
浜口町の大学病院で胃潰瘍の検査に行く予定でした。しかし、
どういう訳か朝から急にお腹が痛くなったので、自宅のある
蛍茶屋で寝ていました。突然「ドドドーン」と言う大音響と共に
爆風がきて、家もろともにゆすぶられました。爆心地から4キロ
メートルの所です。自分の家のそばに、至近弾が落ちたと思い
ました。しばらくして、様子を見に外へ出ました。近所の家々は
倒れてはいなかった けれど、私の家と同じように、瓦はめくれて、
家の柱に障子とふすまがまとわりつくように潰れているのが
外から見えました。

これを見て、光雲寺の壁に貼り出してあった広島の新型爆弾だと
思いました。それで、自宅にいた母と妹に急いで逃げるように
言いました。母は妹を連れて山の方へ行ったようでした。自分の
家族がどうなったか、心配でした。とりあえず、すぐ下の弟の
消息を聞きに、諏訪神社近くの武徳殿に行きました。そこには
連隊区司令部の分所があって、弟の事を尋ねたら、ガラスで手を
切って陸軍病院に行ったと聞き、ひと安心しました。その日は
市内の大火事などで混乱と避難者の混雑で、とても先に進める
状態ではありませんでした。火事は当時空襲の対策で強制的に
疎開地になっていた桜町の所まで迫っていました。それで
やむなく家に帰ってきました。そうこうする内に、家族は一人、
二人と帰ってきました。でも一番下の弟だけは帰って来ません
んでした。

次の日、家族の中で一人帰ってこなかった弟を探しに、身支度を
整えて出かけました。自宅を出て桜馬場を通り、経済学部の横を
通り、西山から三つ山越えで、本原に下りて行きました。弟は
旧長崎工業学校(現南山高校)に通っていたので、もし生きて
いたらその辺りに居ると思い、焼け野原を歩いて行きました。
その一帯が爆心地だったと後から知りました。途中小学一年生
ぐらいの男の子が石に座っていました。ところが、その子は座っ
たまま死んでいるのです。差し出したその手のひらに、煎り大豆
が乗っていました。その後ろに、彼の弟らしい小さい遺体が横
たわっていました。言葉が出ませんでした。さらに、しばらく
行くと、胸に挺身隊の名札をつけた、モンペ姿の女の人がいま
した。目を閉じて、手を水平に突き出し「もう目がみえません。
助けてください。」と誰かに向かって叫んでいました。彼女は
差し出した腕から皮膚が着物のように垂れ下がり、見るも無残な
格好でした。そして近づいた私に「すいません、十人町の者です。
連れて行ってください。」と頼まれましたが、私は自分の弟を
探しに来た事を告げて、謝りました。

道端の死体をいくつも見ながら、ようやく旧工業高校に着きま
した。板の上に乗せられた裸の遺体が累々と横たわっていました。
そこに先生らしき人が居られて、弟の事を尋ねたら、すぐに教え
てくれました。グランドの角の石垣にちょこんと座って、生きて
いました。眼下の焼け野原をただ呆然と見つめていました。振り
返った弟は火傷も無く、服も破れていませんでした。靴は履いて
いませんでしたが、元気そうでした。こんな死体ばかりの所で
大した怪我もなく生き残れた事に喜び、すぐに連れ帰る事にしま
した。もと来た道をたどって、三つ山越えで、夫婦側の春徳寺下
まで来ました。そこに崖から浸み出た湧き水の出る所があって、
やっと水を飲ませてやりました。弟はその水を「うまかー、うま
かー」と言って、何杯も飲みました。その後、死ぬまで弟は
「あん水は美味かったなあ。」と家族に言い続けていました。

家に帰って一~二日経つと、唇の周りに水泡がたくさん出来て
いました。それがやがてかさぶたとなって、口が開かなくなり、
飲食がしにくくなりました。3日目の事です。しだいに腹痛と
下痢がひどくなってきて、便所へ何度も行く様になりました。
弟があまりに腹が痛いと言うので、伊良林小学校の救護所に連れ
て行きました。沢山のけが人や病人が医師の診察を待っていま
した。薬らしい薬もなく、やがて火傷に塗る白いチンク油みたい
な塗り薬もなくなってしまいました。痛み止めの注射も、後が
ないと言うので、ほんの僅かばかり気休めに程度に打ってもらい
それでも何もしてもらえないよりはましだと、弟に言い聞かせ
ながら、家に帰りました。しかし、家に帰る途中で注射の効きめ
が切れたらしく、弟はまた痛い痛いと言いながら帰宅したのです。

それからの弟はひっきりなしの用便に、這って行くようになり
ました。やがて這う事もできなくなり、寝たまま下痢を続け、
弱りだしているのが私達にも分りました。弟の腹は次第に黒褐色
になっていきました。生気が失せていきました。そうして7日目
の夕方、家族の見ている前で母に抱かれて、息をひきとりました。
「もっと行きたかった、だろうに・・・。」と思うと集まった家族
は涙が止まりませんでした。

救護所のあった伊良林小学校のグランドで遺体を焼く事になり
ました。周辺の壊れた家屋から板切れや角材を引きずって来て
トタン板を敷き、弟を乗せ、上から材木を井形に組んで、火を
つけました。骨になるまで焼く必要があったけれど、なかなか
焼けませんでした。松根油を作る為に集められていた松の根を、
持ってきてかぶせたけれど、腹と頭はなかなか焼けませんでした。
だから、棒でかき回して焼きました。一番辛かったのは丸太の
先を弟の頭蓋骨に突っ込んでかき回しながら焼かねばならない時
だったと思う。脳みそをかき出してしまったら、やっときれいに
焼けました。灰の中から遺骨を拾い上げ、持って行った梅干し
入れの壺に入れました。帰り道にお葬式をしようと言う事になり
、お寺に連絡しました。でもすぐにはお坊さんに来てもらえま
せんでした。やっと手が不自由な若い坊さんが来てくれました。
仏壇の前で、家族が集まり、ささやかなお葬式をあげました。
それから墓所に骨壷を持って行き、納骨しました。

弟の命は被爆から僅か7日間でした。皮肉にも終戦の玉音放送が
あった次の日の8月16日のことです。私の家族で亡くなった
のは一番下の弟だけだったけれど、親戚のおばさんは息子と娘を
広島で、同じ原爆で亡くしています。私も、もう一人の弟も
ガラスで怪我をした部位が、一年間も化膿し続け、なかなか治ら
なかったのは、放射能のせいと思います。人間の白血球が放射能
で異常をきたして、傷口の細菌を追い出せなくなっていたのです。
家族の他の者も被爆していました。五女の妹は茂里町の三菱兵器
工場で被爆し、ペチャンコの工場から火事の中を命からがら、
途中防火用水を被りながら、その日の内に逃げ帰って来ていまし
た。その妹も命は助かったけれど、一度は髪が抜けたのです。
可哀相でした。四女の妹も九電の仕事中に思案橋近くで被爆し、
本社のある五島町に逃げ帰ったと聞きます。

被爆からしばらくして、妹は占領軍のABCC(桜馬場)に何度
も呼び出され、検診を受けさせられた。それは治療目的でなく、
原爆の威力を調べる追跡調査だったと知って、腹が立ちました。
こんな汚れた爆弾は二度と使用しないで欲しい。毎年、お盆には
兄弟姉妹が自宅の仏壇の前に集まってくれます。昔話と共に原爆の
話もします。そして、私は死んだ弟の事を何度も話して来ました。
けれどそれを「他人様にわざわざ話す事でもない」と思って来ま
したので、そのまま50余年が経ちました。その私が80歳を越
えたのを機会に、原爆を体験した者として、被爆の実情を1つでも
多く残さねばならないのではないかと思い立ったのです。



-追記-

長々とご覧頂ありがとう御座いました。<(_ _)>

64年前の夏に広島・長崎で起きた事は必ず語り継いで
いかなければなりません・・・愚かな間違いを繰り返さぬ為にも

大量破壊兵器は使っても使われてもそれで最後なんです。
何も残りません。人間は愚かです、が素晴らしくもあります

国同士の身勝手な争いに、民が巻き込まれるのはもう嫌です。
わたくしの父達のような、悲しみや苦しみ憎しみはもう結構です。

普通で良いんです、ただ穏やかに暮らしたいだけなのですから





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テーマ : モノクロ
ジャンル : 写真

【 63年目の夏~~~広島・長崎より 】

広島平和都市記念碑《原爆慰霊碑》

安らかに眠って下さい
過ちは
繰返しませぬから

-------------------------------------

長崎平和公園内《平和の泉》

のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
      一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

   -ある日ある少女の手記から

-------------------------------------

AB01

現在の広島原爆ドーム

毎年8月になると気が重くなる、本来なら楽しい夏なのに
もの心つくころからお盆に親戚が集まると良く聞かされた
話し。昭和20年(1945年)8月6日人類史上初めて核兵器
が一般市民が生活する頭上で使用された。推定死亡者数
14万人今も後遺症に苦しむ多くの被爆者が生き続けている。

亡くなった父は長崎の被爆者であった。私も被爆2世になる
今住んでいる実家も築70年以上で爆風で柱や土台が浮い
た被爆遺構です。長崎原爆での推定死亡者数は7万5千人
爆死者の多くは婦女子や学徒勤労動員の学生らであった。

当初の計画通りに任務遂行された広島とは違い。長崎は
天候不良やB29搭乗員のミスが重なり第一目標の小倉を
断念した後に向かった第二目標であった搭載燃料の残量
不足や機械の故障も発生。投下を諦め原爆を海洋投棄 し
帰還するか否かギリギリであった。その時偶然投下地点に
わずかな晴れ間がポッカリと開きそこへ吸い込まれる様に
原爆が投下 された。一瞬の閃光と轟音と暗闇に包まれた
長崎北部一帯は“惨劇の谷”へと変貌したのだった。


AB02

被爆後の広島原爆ドーム

戦争には加害者も被害者も無いのです、国同士の大義名分
やいろんな事情が争いの引き金になって来た。勝ち負けだけ
でどちらにも多大な損害が発生し、後に残った物は人々の
苦しみや悲しみだけ。原爆使用を正当化すつもりも黙認
するつもりも無いが使用されるまでの経緯(事実)はあった。

日本の中国大陸侵攻にアメリカは経済封鎖で対抗し和平交
渉も決裂。日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃(宣戦布告
は攻撃後)米国を激怒させた。当初優位だった日本軍も敗走
を重ね沖縄まで玉砕した。終戦間際に参戦したソ連が日本
の分割統治を要求して来た、それを阻止する為に米国は
終戦を急いでいたが本土決戦で予想される米軍兵死傷者や
投入される物資を考えた時、戦争を少しでも早く終結させたい
のはアメリカ自身だった。密かに進行してたマンハッタン計画
(核開発)で原爆が完成したのはそんな時だった。 


AB03

3月10日東京大空襲後の焼け野原

原爆でどうしても広島・長崎がクローズアップされますが
東京・神戸・大阪・名古屋など他の都市圏も通常爆弾で空
襲を受けている。昭和20年3月10日の東京大空襲は未明より
3時間余り38万1300発、1783tのクラスター焼夷弾がばら撒
かれ8万人が死亡4万人が負傷100万人の都民が被災した

乾燥した木造家屋や木綿布の防空頭巾を被った人間など
雨の如く降り注ぐ火のついたゼリー状のガソリンに、ひと
たまりも無く焼き尽くされた。原爆1発も焼夷弾38万発も
目標は同じ〝生きた人間〟だったからで日本人の戦意
を喪失させる・・・それが目的だったのだ。長崎への原爆
投下6日後日本は無条件降伏し戦争は終った。父親は
よく言ってた『これで死ななくて済むと思うとホッとした』と

ゼロにリセットされた戦後日本を復興させて世界に有数の
技術立国にしたのはわずかに生き残った優秀な技術者だっ
た。もしも戦争が起らず優秀な人材が全員生きていたならば
今の日本はどんな国になっていたであろう?

先の世界大戦で国を問わず亡くなられた全ての御霊に
心よりご冥福お祈りいたします。また残されたご遺族の方々
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。


《広島原爆写真館 - 平和都市 ヒロシマの願い》より
(撮影:松重美人)

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テーマ : 伝えたいこと
ジャンル : 日記

☆彡昭和30年頃の給食☆ミ

給食01

《児童のみなさん、給食の時間で~す♪》

なつの赤ちゃん(里親募集)の画像を探してたら
とうちゃんの兄貴が小学校2年生頃の給食風景
が見つかったです。いつ保存したんだろ???

木製の二人用机に木製のイス。
まだ金属製のトレーとかありませんね。
白い木綿の布を机の上にひいてます。

メニューは・・・

◎コッペパン(味なし)に四角いマーガリン
◎脱脂粉乳←ようは粉ミルク、美味しくない
◎おかず・・・豆腐、グリーンピース、挽肉、
       玉ねぎ、人参の煮物(たぶん)

基本的にだいたいこの3種類、たま~にミカン
が半個付いたり、脱脂粉乳→ビン牛乳→テトラ
(三角の紙パック入り牛乳)へとグレードアップ
したが、このコッペパンだけは
最後まで変わら なかった。

このコッペパンを学校休んだ子の家に届ける
のは近所の子供の役目だった。キライな奴
には鼻クソこっそり付けておいてあげた・・・
あん時は御免ね!

食べ残して机の奥に隠したコッペパンがたまに
カピカピになって出て来たが~。硬くなっても
おろし金で削ると美味しいパン粉になって夕食
のコロッケや水でふやかして玉葱や挽肉と
一緒にコネてハンバーグに美味しく化けた!

子なつ01

《探してたなつの赤ちゃん写真はこれ》

この写真でなつ引き取ろうと決めたのです。

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テーマ : 日記
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tag : 思い出

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natupapa

Author:natupapa
natupapa01
☆しごと  じえい
☆すまい  じっか
☆とくぎ  ねこいじり 
☆大好き  お酒全般  
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★なまえ:♀なつ(natu)
★うまれ:H19 駅前ホテルの玄関
★せいべつ:尻尾無しにゃんこ
★おとし:5才のツンデレギャル
★とくぎ:八つ当たり
★だめだめ:チョロ食い
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★なまえ ♀ごま 
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★H22/05/24裏庭生まれの2才半
★特技:餌は残さない・うたた寝
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★H22/05/24裏庭生まれの2才半
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★H23/09位 路地生まれの1才半
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